第十章 これは業務命令なのです。

 丁度、七時半だった。
「小寺さん」
 そんな声がかかり、小寺は今日やらなくても良い仕事から目を離した。見上げると帰り支度を済ませた橋本が横に立っている。
「すいません。お待たせしました」
「あ。もう大丈夫なの? ・・・って、ぴったり七時半だね」
 壁掛けの時計を見ながらそんなことを言いつつ、パソコンを閉じて小寺は慌てて立ち上がる。
 予定があると言っていた田中は、あの後すぐに帰ってしまった。女の子達は毎日、大体定時上がりだ。田中だけがいつも遅いが、その田中が居ないので今日女子のラストは小寺だった。
 他の男性社員は、まだパソコンに向かっている。橋本達よりも遅く戻ってきた営業マンや、総務経理課の課長など。見回して、見慣れない状態の違和感を感じながら、もう一度橋本に向き直った。
「すごいね。ワザと?」
「まさか」
 そんな言葉を交わしていたら、いつの間にパソコンの電源を落としたのか、加藤も帰り支度を済ませていて二人を追い抜いて出口に向う。
「お先に失礼します」
 と、しっかり挨拶して、加藤はあっという間に見えなくなった。「お疲れ様でした」と応えたものの、それが受け取られたのか不明だ。
「あれ? 加藤さん、今日は早いですね」
 橋本が呟き、この時間でも早いんだ。と、思いながら小寺はさっき知ったばかりのことを教えて上げる。
「今日、常務と約束があるんだって」
「へぇ。そうなんですか」
 橋本も初耳だったらしい。大変ですね。と、もう一度加藤が出て行った方を見て呟いたが、小寺が準備完了なのを見て言う。
「じゃあ、行きましょうか」
「うん」
 そして、二人も加藤と同じように挨拶をしてフロアを後にした。

「まだちょっと、余裕ありますね」
 会社から映画館までは、徒歩約十分。約一時間は自由だ。
「先にご飯食べようか」
「そうですね」
 そんなことを言いながら会社の敷地を歩いていると、先に退社した加藤が十メートルくらい先にいた。その後姿の加藤は、門を出て右に向かう。小寺たちの向かう先は左だ。
「加藤さーん。お疲れ様でしたー」
 と、門を出たところで口に手を当てて小寺が叫ぶと、加藤が足を止めて振り返った。
「おー。・・・あ、橋本!」
「はい?」
 ちょっと離れているので、自然皆の声が大きくなる。
 元々大きいのに、加藤はいつもよりも大きな声でこんなことを言った。
「ちゃんと小寺を家まで送り届けろよー!」
 加藤の声が橋本に向かっていると思い、橋本を見上げていた小寺は、
「ちょ・・・っ」
 その言葉に真っ赤になった。そして、手をぶんぶん振り回しながら橋本の代わりに応える。
「な、何言ってるんですかー!」
「子供が遅くまで出歩いていると危険だろー」
「子供じゃないもん!!」
 しかし、その言葉は受け取られることなく、小寺の投げたボールは加藤の背後に消えて行った。華麗なるスルー。
「橋本、分かったかー。業務命令だからなー」
「分かりましたー」
「ちょっ」
 勝手に応えた橋本を見ている隙に、加藤は手を軽く上げて背を向けてしまう。
「じゃ、行きましょうか」
 まだ加藤に何か言いたそうな小寺を余所に、橋本も背を向けて歩き出そうとする。
「・・・ううー」
 橋本は、多分悪くない。
「・・・もぉー」
 だからこそ、小寺はそう唸ってでも従うしかなかった。



「何食いたいですか?」
「何にしよっかー」
 返事になっていない。と思いながらも、本当に迷っているので正直な気持ちを口にした小寺と、自分にも案がある訳ではないのでそれを咎めることなく、橋本も前を向いたまま「うーん」と唸っている。
「この前、和食食べたからー」
 小寺は、二人の前に近付いてくる駅前の電灯辺りを見上げながら呟く。
「今日は、イタリアンとか、中華かな?」
「イタリアンとか中華ですか・・・」
 店を思い出すような間をおいて、橋本は言った。
「中華だと割と大雑把な感じの、定食屋みたいのしか思いつかないですね。イタリアンにします?」
「定食屋?」
 聞き返した小寺は、橋本の予想に反して、キラッと目を輝かせて言う。
「あたし、そういう所行ったことない。行ってみたいなぁ」
「はぁ・・・そうですか?」
 確かに、女の人を多く見かける場所ではない。だからこそ、小寺も縁が無いのだろう。
 でも、なぁ。質より量みたいな店しか思いつかない。
「うーん・・・あんま、綺麗な店じゃないですよ?」
「全然大丈夫」
「結構、量多いですよ?」
「すっごいお腹空いてるから大丈夫」
「・・・」
 何を言っても大丈夫しか返ってこない。そう思いながら、じゃあ、ま、いっか。と、割と自分が気に入っている店に行くことにした。そういえば久しぶりに、あそこの餃子が食べたい。と、思うと、橋本も強烈な空腹を覚えた。


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