第九章 お姉さんがくれた映画のチケット。

「小寺ちゃん」
 その翌日。木曜日。
 隣からそんな声がかかったのは、定時ぴったりの頃だった。とはいえ、まだ帰る準備はしていない。その声が聞こえて、何故かパソコンの右下の時計を見て「お。定時」と気付いたのだ。
 しかし、愛しのお姉さんから声がかかったことで、小寺の定時は吹っ飛んだ。時間なんかどうでも良くなった小寺は「はい?」と言って田中の方を見る。
「これ。使わない?」
 そう言った田中は、ぺらぺらとした小さな長方形の紙を小寺に見せた。二枚ある。田中の細い指に挟まれて、まるでババ抜きの最後の二枚のように、それは小寺に引かれるのを待っていた。
「?」
 渡されるまま受け取って見ると、映画のチケットのようだ。洋画で、コメディらしい。小さな紙の上のプリントだけで、そこまで分かる。でも、聞いたことはない映画だった。
「???」と、光に当てても何も変わる訳が無いのだが、何となく頭の上でそれを見ていた小寺に、田中は言った。
「貰ったは良いんだけど、なかなか見に行く機会が無くて。小寺ちゃんの予定が合えばどうかなって思ったんだけど」
「え? でも、そんな。悪いですよ。勿体無い・・・」
 行けるなら行けば良いのに。と思ったが、田中がコメディを見ているのも何か変な感じがする。多分、本当に貰い物なのだろう。一体どういう理由でそういうチケットが生まれるのか分からないが、たまにそういう可哀想(?)なチケットは存在する。
「そうは言ってもね・・・。これ、今日までだから・・・」
 そうでございますか・・・。
 ため息交じりの田中に一瞬見惚れた。
 が、言葉を理解すると正直な気持ちがぴょこんと主張する。
 ・・・え?
「きょ、今日?」
 慌てて小さな注意書きを読むと、なるほど。確かに今日の日付が入っている。
「一週間くらい前に貰ったんだけど、いつか行けるだろう、いつか行けるだろうって思ってたら結局最終日になっちゃって。あたし、今日も予定があるから行けないの。もし、小寺ちゃんの予定が合えば使ってくれないかなと思って」
「えー・・・と。暇はー・・・暇ですけど・・・」
 と、正直に今夜の予定を口にしたものの。
 でも、なぁー。一人で行くのもなぁー。と、悩んだ。
 ただなら行きたい気もするけど・・・うーむ。
「暇なら加藤君か橋本君辺り、誘ってみたらどう?」
「え?」
 はし?
 その名前に、何だか急に、デートをした日のことが蘇ってきた。二人で出掛けた日のこと。当然、田中は何も知らない訳だが。
 急に、恥ずかしくなってくる。
 今度は自分がデートに誘うってこと? 成り行きとはいえ、そんなことを考えてしまったら。
「は・・・え? いや。いい・・・ええ?」
 橋本の名前に動揺した。正直、理由はそれだけだ。真っ赤になっているのも自分の体感で分かっている。
 しかし、分かっていても隠したい。小寺は慌てて首を激しく振って言った。
「あ、あたし、一人で行ってきます。・・・うん。どうせ暇だし。勿体無いし」
 と、慌てて小寺は言う。
「そう? でも遅くなっちゃうし、危なくないかしら」
 今日は木曜日だし、本当に加藤君か橋本君辺り、早く帰ってくると良いんだけどね。
 田中がそう呟いた時、ドアが開く音がした。外と中を繋ぐ玄関の音だ。
 そして数秒もしない内に、フロアの入り口から加藤が入ってきた。
「ただいまー」
 と、さして声を張っている風ではないのにハッキリとした声が耳に届く。
「おかえりなさーい」
「お、おかえりなさいー」
「?」
 二人がこっちを見ているのに気付いて、加藤は不思議そうな顔をして近付いてきた。そして、田中に標準を合わせた首の傾け方をして言う。
「どうした? 何かあった?」
 そう言った加藤に、小寺は素直に驚いた。田中から加藤へも、だが、いつもなら加藤から田中へも割とちゃんと敬語で話すのに、今日は人が全然いないからか。それとも定時を過ぎているからなのか。まるで自然にそんな言葉を発する。
 いや。自分が気付かなかっただけなのかもしれない。意識していなかったから。でも、二人の関係を知った今、余計にそんなことに敏感になってしまっている。
 だから驚いたというのは、違ったとすぐに認識する。何だか、ドキドキする。まるで恋してしまったかのように。
 ど、どうしよう。何か、あたし、こ、混乱してるかも。
「あのね。今日・・・」
 しかし、田中のその言いかけた言葉に我に返る。
「ちょっ」
 そう言って止めようとしたものの、田中には絶対に荒っぽいことの出来ない小寺は、立ち上がった田中の後を追って慌てて立ち上がり、彼女の服を力なく、ちょいちょい引っ張った。田中がそれに気付いて小寺を見ると、彼女とは目を合わせずにぎゅっと目を閉じたまま小さな声で言う。
「いいいい、良いです。一人で大丈夫です」
 この時、小寺の頭の中では「田中さんの彼氏である加藤さんと二人で出かけるなんて申し訳ない。そんなこと出来ない。無理無理無理」と、とにかくそんなことばっかりが頭の中にあった。田中が良いと言っても、今は聞けない。本当に、本当に二人は彼氏彼女なんだ。なんて、実感する。
「?」
「だ、大丈夫よ。小寺ちゃん」
 どこまで察してくれたのか。田中はそう言って小寺の頭を撫でる。そして、そのまま加藤のほうに向き直って、静かな声で言った。
「小寺ちゃんにね。映画のレイトショーのチケット上げたんだけど」
「ああ、あれ?」
 加藤は何のことか知っているらしい。田中はその言葉に頷くと、小寺の方を向き直って呟く。
「小寺ちゃん、今夜暇だから行けるみたいなんだけど、一人じゃ何だし、遅くなっちゃうし、誰か誘ってみれば? って言ったの。危ないじゃない?」
「うむ。危ない。それは危ないぞ。小寺」
 いきなりお父さんみたいになって、加藤はそう言う。そこに突っ込む気力は、今の小寺には無い。
「だからね。誰か一緒に行って上げられないかなぁと思ったんだけど」
「俺?」
「うん。どうかな」
「今日じゃなきゃ駄目なの?」
「今日までなのよ」
「あー・・・」
 そういうことか。と、加藤は呟いて宙を見上げる。多分、小寺が見ている天井と、ずいぶん違った景色が広がっているに違いない。
「俺は無理だなー。今日は常務と約束があるんだ」
「あ、そうか。そう言ってたわね」
「うん」
「・・・」
 小寺には初耳のことだ。営業部長なのだから役員と約束があることはおかしなことではないが、そういうことを実際に行っていることにも、田中がそれを把握していることにも、改めてちょっと驚いた。
「他に誰かいないのか? そろそろ皆戻ってくるだろ」
「うん・・・」
 その言葉に、田中が何かを言いかけた時。
 さっき加藤が帰ってきた時と同じ音がした。誰かが帰ってきたのだ。
 三人とも、何となく口を噤んでしまう。他の部署の話し声やパソコンを叩く音が、急に大きな音で響き始めた気がした。
「只今戻りましたー」
 そう言って入って来たのは橋本だ。多分三人とも違う気持ちで彼の帰りを待っていた。
「お」
 と、加藤は言った。
「おかえりー」
 と、田中は言った。
「お、おか」
 二人とも、何でそんなに普通なの? と、思いながら見上げてどもった小寺は、慌てて「おかえりなさいー」と、呟く。
「?」
 そんな三人に、橋本はちょっと何か言いたげな顔をしたが、関係ない話をしているとでも思ったのかもしれない。会釈をすると、横をすり抜けて自分の席に行ってしまう。忙しいのかもしれない。
 それなのに、その背中を見送りながら。
「丁度良いのが帰ってきたじゃないか」
 と、加藤は無責任なことを口にする。そして田中も、その言葉に頷いた。
「そうよねぇ? ・・・小寺ちゃん。嫌?」
「い」
 いいい・・・。と、歯軋りのようなことを言ってから、小寺はうつむきつつ、二人を見上げるという高等テクニックを駆使しながら呟いた。
 嫌、とかじゃなくて・・・ですね・・・。
「で・・・でも、突然すぎるし・・・」
「じゃあ、俺が聞いてやろうか?」
「加藤さんは駄目ー!!」
 正直な気持ち故に、小寺の声は異常に大きくなった。慌てて口を塞ぐが、社内の視線が小寺に集まる。
 しかし、いつもいつもそんなやり取りをしているおかげ(?)か、あまり気にするようなことはなかったようだ。橋本ですら不思議そうな顔を上げたが、すぐに書類の束に目を戻す。
「何で俺は駄目なんだ」
 ちょっと面白くなさそうに、加藤は言う。
「え? と・・・何となく・・・」
 確たる理由が無いので、叫んでしまったものの小寺には返す言葉が無い。慌てて田中の後ろに隠れるように引っ込むと、その小寺に田中が言った。
「じゃあ、あたしが聞いてみようか?」
「・・・」
 その優しい声にちょっと落ち着き、返事を迷いながら、ちらと橋本のほうを見る。橋本は忙しいのか、全然こっちを見ない。何となく、敗色濃厚。という言葉が頭に浮かぶ。
 でも、我に返って気付いた。軽い調子で聞いて、軽い返事を貰えば良いのだ。別に、大変なことじゃない。それなのに、何で自分は勤めて紛らわしいことをしてしまっているのか。
「じ・・・自分で行ってきます」
 お。という顔をしたカップルを置いて、小寺は足音を消すような歩き方で橋本の席に向かう。これ以上面倒な雰囲気になる前に、さっくりケリをつけてしまおう。そう自分に言い聞かせる。
 そして、小さな声で橋本の名前を呼んだ。その声は震えて、ちょっと裏返ったように聞こえて。
 正直、恥ずかしかった。
「? はい?」
 橋本は、不思議そうな顔をして小寺を見上げる。そして小寺だと分かると、おかしそうに笑って言った。
「また何か、からかわれたんですか?」
「う・・・うん。まぁ・・・」
 そう呟いて、小寺は机に隠れるようにして橋本の隣にしゃがんだ。そして、橋本を見上げて小さな声で内緒話をする。
「あ・・・あのね」



 そんな二人を見ながら、加藤と田中はひそひそとこんなことを話していた。
「何だって、あいつはあんなにちっちゃいんだ」
 ほぼ完全に姿を消した小寺に、本気でちょっと驚きながら加藤が呟く。
「加藤君、小寺ちゃんが可愛くて仕方ないのね」
「ん・・・」
 その言葉に頷きかけて、加藤は田中を見る。
「・・・あれ?」
「ん?」
 田中が不思議そうに加藤を見上げ、その視線が絡まると、ちょっと肩を竦めて加藤は言った。
「もしかして、妬いたの?」
 驚いて良いのか、怯えて良いのか、からかって良いのか。だって、田中がそんなことを言うのは滅多に無い・・・というか、初めてのことだったからだ。
 そう思うと、嬉しい様な、怖い様な、これまた複雑な気分。
「違うわよ」
 しかし田中は、おかしそうに笑って首を振った。
 その返事に、ちょっとショックを受けた様子の加藤に、それが分かって田中は更に笑って言う。
「あたしも、小寺ちゃんのことが可愛くて仕方ないもの。だから、あなたの気持ちが分かるのよ」



「はい?」
 どうしたんだろう。そんな疑問を顔に出しながら、橋本は聞き返した。そして小寺の声が小さかったのか、ちょっと耳を近付けるようにして体を傾けてくれる。
 その橋本に向かって、小寺は精一杯の声で言った。
「た・・・田中さんにね。今日までの映画のチケット貰ったんだけど、暇だったら一緒に行かないかなぁと思って」
 それは小さな小さな声で。でも、それが今の精一杯。
 そう言って、二枚のチケットを橋本に見せるように顔の前に出す。本当は、その小さな紙に隠れてしまいたかったのが本音だった。
「今日?」
 ちょっと驚いた顔で、橋本は聞き返す。
「あの。忙しかったらね。全然良いの。あたしも別にね。どうしてもって訳じゃないし。えと。一人でも行けるし」
「・・・」
 いや、一人は危ないでしょ・・・。と、加藤や田中と全く同じことを思った橋本は、今日の仕事を頭の中で整理する。特に急ぎのものもないし、たまってる重い仕事もないし・・・。
「何時からですか?」
「く・・・九時なんだけど」
「場所、どこなんですか?」
「駅の、すぐ近くの・・・」
 と、駅とは全然違う方を指差しながら小寺は言う。けれど、橋本にはすぐにどこだかは分かった。それなら問題ない。と、簡単な答えが出てくる。
「良いですよ」
「えっ?」
 一体、どんな返事を期待していたのか。そう答えると、小寺は物凄くビックリしたような顔をして聞き返してきた。
「良いの? 今日だよ? この後だよ?」
「分かってますよ」
 しれっと答えた橋本に、小寺は平常心に戻るきっかけを得たようだ。
「い・・・良いの? じゃあ・・・行こっか」
 戸惑った声とは裏腹に、ちょっと嬉しそうな小寺を見て、橋本は勤めて棒読みで言う。
「あと一時間位したら出れますけど」
 時計を見ると、六時半になっている。小寺は立ち上がり、頷いて言った。
「わ・・・分かった。じゃあ、待ってるね」
「はい」
「・・・終わったら、声、かけてくれる?」
「・・・」
 何だって、そんな申し訳なさそうな顔をするんですか?
 と、聞きそうになる位に縮こまった小寺に、心配や疑問よりもちょっと好感を持ってしまった自分に参った。
 不安そうに橋本を見た小寺に、ちゃんと笑顔で橋本は言う。
「分かりました」

 小走りで席に戻ると、まだ田中と加藤は待っていた。
「何だって?」と、田中が聞くから、小寺はしどろもどろに返事をする。
「い、良いって・・・」
「そう」
 その言葉に、田中は嬉しそうというよりも安心したような表情をした。とにかく小寺が心配だったらしい。
「良かったね」


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