第八章 部長は奢らない。

 それは、もう定時を過ぎた水曜日の出来事だった。残業中ということで、お菓子を食べている人や、椅子の上でふんぞり返って伸びをしている人が目立つ。頬杖を付いて、多分仕事じゃない画面を見ているんだろうなぁという人も居る中。
 小寺は、今日の受注の利益額のまとめをしていた。
 そこに、後ろから影が近付く。そして、小寺はすっぽりその影に飲み込まれた。(比喩)
「おい。小寺。飲みに行くぞ」
「・・・はい?」
 唐突過ぎる加藤の言葉に、ハムを動かしながら小寺は真上を見上げた。部長は真下を向きながら、事務的にこんなことを言う。
「今週の金曜日。明後日だな。場所はいつものところ。七時開始。二時間飲み放題。食事は別。対象は営業部だ」
 ほわー。と呟く様な口をしながら。
 単刀直入に言えば口を半開きにしていた小寺は、しばらくすると親指を立てた。そして「了解!」と呟くと、パソコンに向き直ってメールを打ち始める。カタカタカタカタ。
 題名。飲み会のお知らせ。
 加藤部長からのお達しです。来たる今週の金曜日。営業部の飲み会を開催します。場所はいつもの「のんだくれ」。開始は七時ですが、営業の方々は遅れるようでしたら途中参加OK。二時間飲み放題プラン。食べ物は自由。全て加藤さんの奢りです。
 と、打ち込んだところで。
「こーでーらーっ」と、後ろから声がかかった。
 が、それには反応せず「以上」も「小寺」も書かずにハムで送信ボタンをクリックしようとする小寺の手を掴んで加藤は叫んだ。
「何書いてんだ! お前は! 誰が奢りだなんて言った!?」
「奢らないって言ってないもん!」
「屁理屈こねるんじゃありません!」
「はーなーせーっ」
 残業中。それは無法地帯なのか。自由な時間なのか。何やっても良いのか。
 小寺の首を絞め、ハムを取り上げようとする加藤と、こんな時ばっかり頑張る小寺を見て、周りの皆はくすくすと笑っている。隣の田中でさえ、呆れた顔をしているが、うるさい二人を止める気配も無い。
 しかし、もしかしたらこれを読んでいる就職前の方々もいらっしゃるかもしれないのでこれが嘘だとは注釈しておきたい。本当の会社でこれをやったら、ほぼ間違いなく怒られる。
「身の程を知れ! そんなにちっちゃくて俺に勝てるか!」
 結局、酸素不足で戦意を失った小寺が机に突っ伏したところでゴングは鳴った。加藤はハムを外してコードの部分を持ち、ぶんぶん振り回している。その前で、更にちっちゃくなった小寺は干からびたイカのように固まったまま動かない。
「ただいま戻りましたー」
 そして戻ってきた橋本は、その惨事をいきなり目にすることになる。正直に引きつった彼は、倒れている小寺とぶんぶんハムを振り回している加藤を指差して。
「おかえり」
 と、苦笑いをしつつ唯一答えてくれた田中に、事の真相を尋ねた。
「明後日、営業部の飲み会だって。橋本君、来れる?」
 経過を全て通り越して、田中お姉さんはそう言った。
「・・・はぁ」
 その言葉で、あー。また、じゃれてたんだな。と、間違いではない答えをはじき出した橋本だった。
「また『のんだくれ』ですか」
 鞄を下ろしながら田中に言うと、田中は干からびた小寺と加藤を見ながら頷く。
「営業君達が気にせずにこれる場所って言ったら、今のところあそこしかないからねー」
 居酒屋。のんだくれ。
 そこは、もともと加藤の行きつけの店だった。そこに通う内、店長や店員と仲良くなったのが始まりだった。そういう理由もあってか、かなりの融通が利く。
 まず、大体の人数で予約すると、それが入るだけの席を確保してくれる。しかし、飲み放題などは最終的に来た人数で計算してくれるのだ。外出の予定があって間に合わない者もいるので、そういう人が「間に合えば行きたい」という時に大変重宝するシステムなのである。
 しかし、その為食事をコースにしたりは出来ない。個々に頼むことになるのでバラバラの食事になったり会計時まで幾らか分からないといった点もあるが、店員が気を利かせて加藤と相談し、ほど良き時におなかに溜まりそうなお手ごろ価格のものを持ってきてくれたりする。
 そのせいもあって、またあそこかぁー。と言いつつ、行けば皆入店時に体育会系の「ちわーっす」という挨拶をしてしまったりなど、なかなか良い関係を築いているのである。
「あそこ、良いですよね」
 橋本は素直にそう言う。その言葉に誘われ、視線を橋本に向けた田中の前で一旦下ろした鞄を持ち上げながら今度は小寺の方を見て、笑いながら橋本は言った。
「間に合えば行きます。八時までに行けると良いんですけど」
「・・・うん」
 小さな返事をした田中に僅か会釈をして、橋本は席に向かった。
 ・・・本当に最初はホストみたいって思ったけど。
 まだ干からびている小寺の隣で、田中はその背中を目で追う。
 良い子よね。素直で、明るくて。
 そのギャップが、より良い方向に向かっているのかもしれない。少なくとも田中は、橋本のことを相当買っていた。それは仕事に関しても売り上げの数字としてキチンと証明されている。きっと、行った先で医師達にも可愛がられているのだろう。
 ・・・良いと思うんだけどなぁー。
 よろよろと上半身を起こした隣の小寺が、きーきー加藤に文句を言っているのを見ながら、そう思う。
 そして、橋本とまったく同じ感想を持った。
 どう見ても、小寺ちゃんの方がお姉さん・・・には見えない。
 だから、合うと思うんだけどなぁ。橋本と、小寺。
 そうは思っても、本人達の問題だから何とも言いようが無い。
 その小寺と、ぎゃーぎゃー子供のように言い合いをしている自分の恋人も見る。
 あれは、間違いなく年下だわ。
 でも、嫌いじゃない。だからそんな自分に苦笑しつつ、田中はチラリと橋本の方を見た。パソコンの画面に隠れて良くは見えないが、その橋本に呟く。
 お互い、苦労するね。
 その言葉が妥当かどうかは分からない。けれど、そんな気分だった。
 そして隣はぎゃーぎゃーうるさいままだが、やがて田中は仕事に戻った。


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