第四章 後輩君は先輩ちゃんを惑わす。2

 お先に失礼します。と、小寺が言って会社を後にしたのは六時。まだ明るい時間帯のこと。
 お疲れ様でした。と、何人かの声を聞きながら、小寺はギクシャクした歩き方で帰ってきた。
 帰る途中の記憶が無い。橋本のことばかり、考えていた。というか、明日のことばかり考えていた。
 帰ってきてしまった。玄関でへたり込みながら、そう思う。橋本の連絡先は知らない。自分も教えてない。だから、会社で話さなければ、明日のことなど決めようが無いのに。
 こっちから「で・・・どうするの? っていうか、本気なの?」とも言えず、自然な時間に、不自然にならないように帰るのが精一杯だった。
 チラリと垣間見えた橋本は、帰る自分を見ることは無かった。「お疲れ様でしたー」と、パソコンの画面を見ながら言ってくれただけだ。
 ホッとしたような、まだ動揺してしまうような・・・。だって。
 どうしよう、と思う。明日、出かけましょうって言われたのに、ちゃんとした返事もしないまま、自分からは話しかけないまま帰ってきてしまった。月曜日になったら「小寺さん、帰っちゃうんだもんなー」と、笑顔で冗談だったかのように言ってくれるだろうか。そんなことを考えていたら、せっかくの休日楽しめないじゃないか。と思いつつも、自分では何もしなかっただけに橋本を責めきれない小寺であった。
 不意に、携帯の音が聞こえてきた。
 誰だよ、もー。と、下ろしたばかりの鞄の中を探ってチカチカしている画面を見る。
「?」
 知らない番号。誰?
 と、思いながら、いつもなら出ようかどうしようか迷っている内に切れてしまうこともあるのに、小寺は何故か通話ボタンを押して携帯を耳に当てた。
「はい?」
「あ。出た」
「!!」
 サッと自分の顔が熱くなるのを感じる。
「は・・・はし? 橋本君? 何で?」
「? 何でって?」
 橋本は、今帰りらしい。背後からざわざわと喧騒が聞こえてくる。慌てて時計を確認すると、七時過ぎだった。いつもと比べると、今日は早めの帰宅だろう。宣言通り、今日は早く帰れたらしい。
「明日のこと、中途半端になっちゃってるじゃないですか」
「ちがっ。そうじゃなくて・・・」
 どもってしまう自分がもどかしい。息継ぎがうまく出来なくて、橋本に言いたいことがあるのに伝えられない自分にあたるように、小寺は手をぶんぶんさせて必死に訴えた。
「ああ・・・」
 しかし、それだけで橋本は理解したようだ。可笑しそうに笑いながら、こんなことを言う。
「電話番号、何で知ってるのかってことですか?」
「そ・・・そう。何で・・・」
「何でって・・・別に、誰かに聞いたりしてないですよ?」
「・・・え?」
 あれ? おかしいな。あたし、教えたんだっけ? と、小寺は一気に冷静になる。でも、あたし橋本君の連絡先知らないのに・・・何で? 何で?
「会社で、連絡網配られたでしょ?」
「・・・連絡網?」
「あれ? 忘れちゃってるんですか? いざって時、困りますよ?」
 敬語なのに、責めるような言い方をする橋本の言葉に、小寺はうぐぐと言葉に詰まった。
「去年の夏の台風で電車が全然動かなくなった時、皆の了承とって携帯電話で連絡網作ったじゃないですか」
 そう言われて、思い当たることがある。大型の台風が来て電車が遅延し、会社に連絡を入れたものの、ほとんど誰も着いていなくて連絡が取れなくなってしまったのだ。幸い、田中に連絡を取り、田中が殆どの営業部員の連絡先を知っていた為、田中を中心に連絡を取り合い、何とかなったのだが。
 その時に、他にも急に連絡をまわさねばならない時もあるかもしれないし、その時に家に居るとも限らないので、会議で話し合った結果、携帯電話で連絡網を作成したのだ。
 ・・・すっかり忘れてた。
「・・・思い出した」
 プリントアウトしたものを手帳にはさんだものの、何のトラブルも無かったため、そのままになっていた。というか、橋本に言われるまで思い出しもしなかった。
「それは良かったですね」
「・・・」
 ずっと笑っているような橋本の声に、ちょっと安心した。今日、何の話もしないまま帰ってしまったことを怒られたりはしなさそうだ。と思って。
 で? と、仕切りなおした小寺は思い出す。
 明日の、こと?
「小寺さん、どこに住んでるんでしたっけ?」
 電話の中から、橋本の声が聞こえてくる。
「・・・南区」
 何だか照れくさくて、小寺はぼそぼそと答えた。誰も近くに居ないのに、聞かれないように壁に寄り添ってコソコソと話していることに、小寺は自分でも気付いていない。
 しかし、橋本にはちゃんと聞こえているようだ。
「南区かー。最寄り駅は、どこですか?」
「・・・桜町」
「桜町なんだ。ふーん。そこまでは徒歩で行けるんですか?」
「まぁ・・・うん・・・」
 今日も、その駅から歩いて帰ってきた。
 っていうか、何でこんな話をしているんだろう。そんなことを思った小寺に、橋本は言う。
「じゃあ、そこで待ち合わせしましょうよ。俺、車で迎えに行きますから」
「え?」
 車? 迎え?
 その言葉に、小寺の頭の中は再び一気にヒートアップした。
「ええええええええ、っと。えっと?」
「昼くらいにします? もっと遅い方が良いですか?」
「ひ・・・昼は、大丈夫だけど。いや、あの」
「はい?」
「・・・」
 はい? という、邪気の無い橋本の声が頭に残った。
 その瞬間、何だか冷静になって、小寺は言う。
「は・・・橋本君は・・・家、どこなの?」
「俺ですか? 東区です」
「・・・く・・・車って・・・だ、大丈夫なの?」
「は?」
「いや・・・その・・・と、遠くないかな・・・とか」
「・・・」
 沈黙。
 そして次の瞬間、橋本が吹き出すのが聞こえた。
 何か変なことを言っただろうか、と、小寺は電話を見てアタフタとする。
「ちょっと・・・」
 と、言ったのは橋本だ。笑いながら、ちょっと非難を込めてこんなことを言う。
「小寺さん、しっかりして下さいよ。俺、営業で毎日車乗ってるんですよ? それに、うちから桜町までは二十分もかからないです」
「・・・」
 そ・・・そうか。と、思い、小寺は思わず「ご、めんなさい」と意味不明な謝罪をした。
「じゃあ、明日。十二時に」
 ひとしきり笑った後、橋本はそう言った。
 明日も、会うのか。初めてだ。会社以外の場所で会うのは。
 そんなことを思いながら、どうにもならない一本道の上で、小寺は答える。
「う」
 何着ていこう。そんなことを思いながら。
「うん」


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